長崎、被爆81年の平和祈念式典始まる 平和宣言で危機感訴え

query_builder 2026/08/09
ブログ画像
ブログ画像
ブログ画像
ブログ画像

 米軍が長崎に原爆を投下してから81年となった9日、長崎市の平和公園で平和祈念式典が始まった。鈴木史朗市長が平和宣言で、長崎の被爆者の言葉を引用しながら、相互不信と分断が深まる世界情勢への危機感を訴え、「核兵器と人類は共存できない」と表明する。
 核保有国や核抑止力に依存する国の指導者には、核拡散防止条約(NPT)の義務履行を求める。日本政府に対しては、11月に初めて開催される核兵器禁止条約の再検討会議への参加や、憲法の平和理念と非核三原則の堅持を求める。
 式典には高市早苗首相が首相就任後初めて参列する。長崎市の本村チヨ子さん(87)が被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げる。(毎日新聞より)

~・~・~・~

 長崎は9日、被爆81年の原爆の日を迎えた。
 平和祈念式典が開かれ、被爆者代表の本村チヨ子さん(87)が「平和への誓い」を読み上げた。全文は次の通り。

<平和への誓い(全文)>

 被爆81年という歴史の転換期を迎え、私たち被爆者が一人もいなくなる時代がそこまで近づいてきました。

 1945年8月9日午前11時2分、私があの巨大な光と爆風を経験したのは、国民学校に入学したばかりの1年生、まだ、小さな幼い6歳の時でした。当時、私は爆心地から約4・5キロ離れた福田村小江郷に住んでいました。
 あの日、母と祖父、叔母の3人は田んぼに出かけており、家の土間では祖母がお昼の支度をしていました。私はひとり、縁側で遊んでいた時、目の前に大きく異様な火の玉が炸裂(さくれつ)しました。その瞬間、家屋が倒壊し、硝子(ガラス)障子が倒れ、大音響とともに私の小さな体は庭先にたたきつけられました。うずくまる私を見て祖母がとっさに駆け寄り、私の上に覆いかぶさりました。何が起こったのか分からないまま祖母に横抱きにされて、防空壕(ごう)に逃れました。異様な火の玉と轟音(ごうおん)、爆風、そしてその後の静けさが子ども心に強く焼き付いています。しばらくして母たちが帰宅し、長崎に原子爆弾が落とされたことを知りました。その後、海辺の小さな集落では毎日のように遺体を焼く火と形ばかりの葬儀が絶えませんでした。とっさに私を庇(かば)い、背中に大きな傷を負った祖母は、十分な手当ても受けられず、一度も仰向(あおむ)けに休むことができないまま、翌年の3月に帰らぬ人となりました。これが6歳の私の遠い、しかし鮮明な記憶です。

 あの日から81年、被爆当時は焦土と化し、動くものは何ひとつなかったここ浦上の丘一帯も見事な復興をとげました。一見平和な光景ですが、一方世界はどうでしょうか。
 新聞やテレビでは、毎日のように争いのニュースが絶えません。ロシアとウクライナの戦争は、いまだに終息が見えません。
 こうした国々の指導者の方々には、毎日の暮らしに喘(あえ)ぐ人々の姿が目に入らないのでしょうか。幼い子が泣きながら裸足で彷徨(さまよ)う姿が見えないのでしょうか。そして祖母の命と引き換えに81年間、十字架を背負って生きてきた私の記憶はただの昔話なのでしょうか。

 昨年の12月、私は14日間、車椅子に頼りながらアメリカを訪れ、ロスアラモス国立研究所などを見学しました。案内してくれたかたと対話を重ねるうちに「ここで働く者の誰一人として平和を願わない人はいない」と力強く語ってくださいました。私は「どうか核を兵器として使わないでください」と伝えるのが精いっぱいでしたが、人と人が分かり合うためには対話しかないことを改めて実感しました。また、私はパールハーバーも訪れました。穏やかな海を見つめながら、なぜ戦争が始まり、多くの命が奪われなければならなかったのかを思い続けました。

 私は平和とは命を守ること、命とは何よりも優先されるべきものだと思います。

 私は残された時間を、命の限り平和を叫びつづけること、そして戦争が再び起こらないよう、祈り続けることを、一瞬にして原爆の犠牲となられた、この丘に眠る多くの御霊(みたま)に誓います。

令和8年8月9日
被爆者代表 本村 チヨ子 (毎日新聞より)

#長崎
#原爆
#平和
#戦争


----------------------------------------------------------------------

個別支援教室・ツーマン塾

住所:神奈川県藤沢市羽鳥1-5-24

羽鳥サニーハイム305

----------------------------------------------------------------------